多賀新田と六体石仏
多賀地区を流れる南谷川の源流部近くに「多賀新田」と呼ばれる集落跡があります。
この新田は多賀村の奥山に立地したことから、正式には「奥山新田」として記録にとどめられています。これは今も集落がある田村新田の開発から30年後の享保17年(1732年)に代官見立て新田として、多賀村の人々の手によって開かれたとされており、その面積は、二町二反四畝であったとされています。
奥山新田は多村新田と比べて規模が小さく、家数も少なかったことが予想され、代官を務めてきたといわれる村田家が明治期の終わりに多賀地区中心部へ転住したことによって無住の地となりました。
現在、この地には明和8年(1771年)の年号を刻む六体石仏と、代官屋敷跡と呼ばれる宅地の石垣だけがわずかに名残をとどめています。
▲ 六体石仏
▲ 代官屋敷跡